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「
四つの声が、同時に私の名前を呼びました。
教室の入口に、四人が並んで立っています。
前髪が目にかかるくらいの黒髪で、制服をきちんと着ているのが和樹くん。
襟足を刈り上げた短髪で、第一ボタンを開けて袖をまくっているのが新太くん。
明るい癖毛をそのままにして、カーディガンの袖に指を引っかけているのが幸也くん。
額を出して、ネクタイまできっちり締めているのが久遠くん。
四人の声は、本当ならぜんぜん違います。
和樹くんはやわらかい中音で、新太くんは低くて硬い。
幸也くんは高くてよく通って、久遠くんは静かな低音です。
なのに、私の名前を呼ぶときだけ、四人とも声がほんの少しだけ下がるのです。
だから「澪」の二文字だけが、同じ高さで重なって聞こえます。
私はこの音を、去年の夏から知っています。
——この人たちは、全員が、私の恋人だった人です。
比喩でも冗談でもなく、そのままの意味で言っています。
去年の夏まで、彼は一人でした。
結城和樹という名前の、一人っ子の男の子でした。
そのことを覚えているのは、この世界で、私だけです。
◇
八月十六日。
結び火祭りの夜でした。
四方原市の外れに、結守神社という小さなお社があります。
うちは代々、そこのお祭りの世話役をしている家です。
毎年この日になると、町中の恋人たちが二人並んで石段をのぼっていきます。
結守さまは縁を結んでくださる神さまだから、二人で参ると長続きする。
そういう言い伝えがあるのです。
私は紺地に白い朝顔の浴衣を着て、参道の入口で和樹くんを待っていました。
「お待たせ」
走ってきた和樹くんは、私を見て、それから目をそらしました。
「……うん」
「なんですか、それ」
「いや、あのさ」
和樹くんは右手の親指で、人差し指の付け根をかりかりと掻きました。
照れているときと、嘘をついているときにだけ出る癖です。
付き合って三年、私はこの動きを数えきれないくらい見てきました。
「似合ってる。すごく」
石段の下から本殿まで、両側にずらりと屋台が並んでいます。
りんご飴、金魚すくい、焼きそば、大学芋。
「チョコバナナ食べます?」
「俺はいい」
和樹くんは、チョコレートが食べられません。
甘いものが苦手なわけではなくて、チョコだけが駄目なのだそうです。
去年のバレンタインに私が渡したのは、お煎餅と甘納豆の詰め合わせでした。
和樹くんは心の底から嬉しそうに、縁側でお茶を淹れて食べていました。
高校生の男の子がすることではないと思いますが、その様子がとても可愛くみえます。
「大学芋にする」
「おじいちゃんですね」
「うるさい」
焼きそばのパックを受け取った和樹くんが、割り箸を右手で割りました。
字を書くときは左手なのに、お箸だけは右なのです。
小さいころにおばあちゃんに直されたんだ、と前に聞きました。
石段の途中で、和樹くんが少しだけ足を止めました。
「和樹くん」
「平気。ちょっとゆっくり行こ」
和樹くんは昔から体が弱くて、季節の変わり目にはよく熱を出しました。
中学二年の夏、このお祭りの準備をしていたときに倒れて、私が付き添って保健室まで運んだのが、私たちのはじまりです。
原因はずっとわからないままでした。
お医者さんに何度診てもらっても、どこも悪くないと言われるのです。
だから私は、彼の歩幅に合わせて歩くことにずっと慣れていました。
◇
本殿の前には、誰もいませんでした。
私たちは並んで、鈴を鳴らして、二回おじぎをして、手を合わせました。
目を閉じると、遠くの太鼓の音と、虫の声だけが聞こえました。
「ねえ、澪」
目を開けると、和樹くんがこちらを見ていました。
「あのさ。願い事、せーので言ってみない?」
「え、口に出したら叶わなくなりませんか」
「結守さまは縁の神さまだろ。聞こえてたほうが結びやすいと思う」
理屈になっていません。
でも和樹くんは、たまにこういう無茶苦茶なことを真顔で言います。
「……いいですよ」
「じゃあ、せーの」
夜の境内に、二つの声が重なりました。
「この人と結婚して、長く暮らしていきたい」
一字一句、同じでした。
和樹くんが真っ赤になって、また親指で人差し指の付け根を掻きました。
私もたぶん、同じくらい赤かったと思います。
鈴の緒が、風もないのに、ちりんと鳴りました。
あのとき私は、結守さまが喜んでくださったのだと思いました。
今でも、あれは喜んでくださったのだと思っています。
それが、いちばん苦しいところです。
◇
帰り道、石段を下りきったところで、和樹くんが立ち止まりました。
「和樹くん?」
「……ごめん。ちょっと、疲れたみたいだ」
街灯の下で見た彼の顔は、紙みたいに白くなっていました。
手を伸ばすと、指先がひどく冷たいのです。
「送ります。家まで」
「いい。走って帰ったほうが早いから」
和樹くんは私の手をそっとほどいて、それから、いつもの顔で笑いました。
「また明日な、澪」
名前を呼ぶとき、和樹くんの声はほんの少しだけ下がります。
そのときはまだ、それが彼一人だけの癖だと思っていました。
◇
————その夜、結守神社の本殿の屋根の上————
小さな童子が、祭りの様子を見下ろしていた。
満足気な表情で、道行く人たちを眺めている。
「祭りはよい。人の願いがいちばん濃くなる夜だからの。今年もよう結ばれた縁がいくつもあった。あの二人の縁など、わしが手を貸すまでもなく、しっかりと縒り合わさっておる」
そして、ふむ、と童子は身を乗り出した。
——男のほうの、魂の緒が細い。
細いどころではない。
ほつれて、毛羽立って、あと数年で切れる。
二十を迎える前といったところだ。
「これは、いかん」
童子は立ち上がった。
彼女に命を延ばす力はない。
運命を書き換える力もない。
彼女にできるのは、縁を結ぶことだけだ。
しかし。
縁を結べるということは、結び直せるということでもある。
一本の緒を、四本に縒り分ければ。
一本あたりにかかる重さは、四分の一になる。
「よし、ならば四つに分けよう」
童子は満足げにうなずいた。
「これで、死が四度来るまで、あれは死なぬ」
二人に断ることなど、彼女には思いつきもしなかった。
命が助かるのだ。
何より、それが彼らの願いそのものでもある。
喜ばぬ道理などない、と確信していた。
次の日、久遠くんから「資料室に来られるか」とだけ連絡がありました。昨日のことには、一言も触れていませんでした。あの場にいなかった人なのに、何があったかは知っているはずです。知っていて触れないというのが、この人のやり方でした。◇資料室は、特別教室棟の三階の突き当たりにあります。使っている人はほとんどいません。古い紙と埃の匂いがする部屋です。長机の上には、もう資料が広げてありました。久遠くんは、私が来る前からそこにいたようでした。上着を椅子の背にかけて、袖をまくっていました。めずらしく、ネクタイが少しゆるんでいました。市の郷土資料のコピー、古い地図、白黒の写真。結守神社の鳥居が写っているものもありました。今より参道が広く見えます。「これ、おばあちゃんに借りてきました」私は、風呂敷包みを机に置きました。中身は、祖母が社務所の物置から出してきた古い帳面です。祭りの支度の覚え書きで、何代にもわたって書き足されてきたものでした。「……すごいな」久遠くんが、めずらしく声に出しました。「触っていいか」「はい」久遠くんは、手袋こそしませんでしたが、指先だけで一枚ずつめくっていきました。丁寧な扱い方でした。私は、その手つきを見ていました。乱暴にめくったら破れる、という判断を、この人は一瞬でしています。物に対しても、人に対しても、たぶん同じなのです。三十分ほど、二人とも黙っていました。ページをめくる音と、外の吹奏楽の音だけがしていました。「なあ」久遠くんが顔を上げました。「結び火祭りの表記だが」「はい」「古いところだと、字が違う」私は、身を乗り出しました。久遠くんが指さしたのは、ずいぶん古
文化祭までの一か月は、あっという間に過ぎていきました。三組の教室は、放課後になると喫茶店の内装作りに変わります。ベニヤ板を切って、赤い布を貼って、段ボールでソファの背もたれを作る。幸也くんが設計図を書いて、私が採寸を手伝っていました。私は結局、クラスの喫茶店と、久遠くんの展示の両方に関わることにしました。新太くんの焼きそばだけ断ったことになります。重い鉄板を持つのは辛いという理由を伝えましたが、結果として、三つのうち二つを選んだのです。そのことに、私はずっと気づかないふりをしていました。選ばなかったのは一つです。誰も選んでいないつもりで、私はもう選んでいました。◇衝突が起きたのは、文化祭の一週間前です。教室で塗装をしていたとき、新太くんが入ってきました。「澪。ちょっと来い」「今、作業中です」「十分でいい。鉄板の位置決めるのに、客の動線見てほしい」刷毛を置こうとしたとき、幸也くんが立ち上がりました。「だめ」教室の空気が、少し止まりました。「なんでお前が決めるんだよ」「今ここ人手足りてないから。あと三日しかないんだよ」「十分だって言ってるだろ」「新太の十分、いつも三十分じゃん」軽い言い合いのつもりだったと思います。少なくとも、最初は。こういうやり取りは、これまでにも何度もありました。順番がどうとか、誰が先に言ったとか。そのたびに幸也くんがふざけて、新太くんが怒って、最後は久遠くんの一言で終わっていました。その日は、久遠くんがいませんでした。「じゃあ聞くけどさ」幸也くんが、刷毛を置きました。「なんで澪ちゃんなの? 動線見るだけなら、クラスの誰でもいいだろ」新太くんが黙りました。「言えないんだ?」「…&hell
文化祭の話は、その日のうちに四方から来ました。最初は幸也くんでした。放課後、ノートを開いて、私の机に身を乗り出してきました。「三組、喫茶店に決まりそうなんだよ。で、内装を昭和の喫茶店っぽくするの。クリームソーダとナポリタン」「バイト先のおばちゃんに聞いたらさ、赤いソファの喫茶店が昔この町にあったんだって。それ再現しようと思って」「よく決まりましたね」「俺が三十分かけてプレゼンした」得意げでした。「でさ、澪ちゃんに接客やってほしいんだよね」「私、そういうの向いてません」「向いてるって。澪ちゃん、丁寧だし、字がきれいだからメニューも書けるし」幸也くんは、そこで少しだけ声を落としました。「あとさ。澪ちゃん、最近ずっと一人でいるだろ」顔を上げると、幸也くんはノートを見たまま言いました。「人が多いところにいたほうがいいと思うんだよ。考える時間が減るから」この人は、いつもこうです。ふざけた顔で近づいてきて、いちばん的確なところに手を置いていくのです。◇次は新太くんでした。下駄箱のところで待ち伏せされました。「うちのクラス、焼きそばになった」「そうですか」「手伝いに来い」「私、三組ですけど」「三組は人手足りてるだろ。喫茶店なんか座ってるだけだ」言い方は乱暴でしたが、理由はすぐに分かりました。「……鉄板、重いんですか」「重い。というか、外だ」新太くんは、少し言いにくそうに続けました。「文化祭は外部の客が入る。他校のやつも来る。この前みたいなのが、また来ないとも限らない」あの日、ロータリーで震えていた手のことを、この人はまだ引きずっているのです。「目の届くところにいてほしい」誰かを守るというのは、こういうことなのだと思いました。
九月一日、始業式。校庭に並んで校長先生の話を聞いている間、私はずっと自分の上履きを見ていました。まだ夏の終わりの日差しで、砂が白く光っていました。前に立っている生徒の背中を見ながら、去年の始業式のことを思い出していました。あの日は和樹くんが貧血で倒れそうになって、途中で保健室に行きました。私は列を抜けられなくて、終わってから走りました。今年、四人は全員、平気な顔で立っています。誰も倒れません。よかったね、と思いました。本当に、そう思ったのです。教室に戻ると、席替えでした。「よし来た」くじを引いた幸也くんが、拳を握りました。「澪ちゃんの隣。神」「引きが強いですね」「実力だよ」和樹くんは窓際の、一番後ろの席になりました。私の斜め後ろです。振り向けば見える位置です。振り向かないように、と自分に言い聞かせました。去年の二学期は、和樹くんが私の前の席でした。授業中に振り向いて、消しゴムを借りたことがあります。返すときに、わざと落として拾わせたこともあります。そういう小さなことを、私は全部覚えています。覚えているのが、私だけなのです。◇昼休み、ちさが私の机に弁当を持ってきました。「ねえ、前から思ってたんだけどさ」卵焼きを箸でつまみながら、ちさは言いました。「澪ちゃんって、なんで誰とも付き合わないの?」箸が、止まりました。「結城くんたち、四人とも澪ちゃんのこと好きじゃん。あれ絶対そうでしょ。四人とも澪ちゃん見るときだけ顔が違うもん」「……気のせいです」「気のせいじゃないって。私、去年からずっと見てるもん」ちさは、何も知りません。知らないというより、書き換えられているのです。この子の
始業式の前の日、私は結城家に呼ばれました。呼んだのは幸也くんです。例によって勝手に決められていました。「母さんが澪ちゃん連れてこいってうるさくてさ」断る理由がありませんでした。むしろ、行かなければいけないと思いました。私はまだ、あの家を見ていなかったのです。◇結城家は、町の北側の住宅地にありました。私の記憶では、何度も行ったことのある家です。表札には「結城」とだけ書いてありました。玄関を開けて、最初に目に入ったのは靴でした。同じ大きさのスニーカーが、四足。サイズはほとんど同じで、色と汚れ方だけが違いました。一足だけ、かかとを踏んで履かれている靴があります。新太くんのです。見なくても分かりました。「おじゃまします」声が、少し震えたと思います。廊下の壁に、写真が飾ってありました。私はそこで、足を止めてしまいました。赤ん坊が、四人写っていました。小さな帽子をかぶって、白い布にくるまれて、並んで寝ています。四つとも同じ顔をしていました。その隣には、七五三の写真がありました。袴を着た男の子が四人、並んで写っています。もっと隣には、小学校の入学式。ランドセルが四つ。全部、なかったはずの光景です。「澪ちゃん? どうしたの」「……なんでもないです」結城家のお母さんは、明るい人でした。背が低くて、よく笑って、私の顔を見るなり「まあ、痩せたんじゃない?」と言って、台所に引っ込んで、五分後には唐揚げの皿を持って戻ってきました。「どんどん食べてね。うちは四人分作るから、量だけはあるのよ」食卓は賑やかでした。新太くんと幸也くんが唐揚げの最後の一個をめぐって言い合い、久遠くんが黙ってその一個を取り、和樹くんが笑
金曜日は、四人全員の日でした。私はその日、初めて当番を断りました。『すみません。少し夏バテみたいで、家にいます』送信してから三分で、四通の返事が来ました。『了解。無理すんな』『えー!? じゃあ差し入れ持ってく! いらない?いらないの? わかった、行かない』『水分と塩』『ゆっくり休んで』順番に読んで、順番に返事をして、携帯を伏せました。夏バテではありませんでした。四人と一巡した、その次の日でした。月曜から木曜まで、私は四人と順番に過ごしました。楽しかったのです。四日とも、全部。なんだかそれが怖くなってしまって、金曜日を断ったのです。◇台所では、祖母が梅を干していました。うちの祖母は、一ノ瀬トキといいます。神主ではありません。神社の世話役というのは、要するに祭りの段取りをして、注連縄を綯って、社務所の掃除をする人のことです。祖母はそれを、五十年以上やってきました。背中が丸くて、声が大きくて、面倒見がよくて、祭りの前になると町じゅうの人が家に来ます。神さまの話をするときだけ、少しだけ声が低くなる人です。「澪、ざる持っといで」言われるままに、縁側にざるを並べました。梅が日を吸って、酸っぱい匂いを立てていました。「おばあちゃん」「なんだい」「結守さまって、本当にいると思う?」祖母は手を止めませんでした。「おられるよ」あんまり早い返事だったので、私のほうが黙ってしまいました。「見たことあるの?」「ないよ。見えたことは一度もない」梅をひっくり返しながら、祖母は言いました。「けどね、社務所の戸を開けるときに、たまにわかるんだ。ああ、今日はおられるな、って。空気が違うのさ。それだけだよ」私は、屋根の上に座っ